ニュースレターNo.155(2020年12月)

「軍に仕え、信仰を最優先に」 -2020.9.12 コルネリオ会での証-
米陸軍退役大佐 スティーブ・タウン

1.はじめに
私は、スティーブ・タウンと申します。アメリカ
の OCF(軍人将校クリスチャン交流会)の会員です。
コルネリオ会との交わりは、日本の自衛隊にとって
も大切であると感じています。
今日の私の証は「軍隊に仕え、信仰を最優先する」
という題で、お話させて頂きます。
私が米軍に所属し、どのように神の恵みによって
支えられたかについて説明します。結論から申しま
すと、「イエスを追いかけている人は、いつもイエス
に支えられるのが当たり前であり、絶えずその通り
になる」ということです。私達は軍隊に所属してい
ても、神様は「私たちがイエスに仕えることができ
る」ようにしてくださいます。
今日の聖書のみ言葉は、コリント人への手紙第Ⅰ
15章10節です。「しかし、神の恵みによって、わ
たしは今日あるを得ているのである。そして、わた
しに賜った神の恵みはむだにならず、むしろ、わた
しは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかし
それは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった
神の恵みである。」
私たちは、自分の努力だけでは不十分で、神の恵
みがなければ何もできないのです。神の力が働いて
いることは確かであると思います。
今振り返ると、私は子供時代から、イエスが私の
命であり、私の生活に関して神様がいつも私と一緒
にいて引っ張ってくれていたように思います。
2.イエスのために生きる「神の恵み」
私は、アメリカ生まれですが、2歳の時に両親とと
もに日本に来ました。父親が宣教師でしたので、2歳
から14歳まで四国の愛媛県で育ちました。父親は、
そこで伝道して7つの教会を立ち上げました。私は、
それを見て育ったことを非常に感謝しています。
私の一番大切なことは、子供の時に日本の文化を
習い、日本が大好きになり、日本を愛していたとい
うことです。特にアメリカに帰国した後も日本にい
つか戻りたいと思っていました。
私が小学校3年生の時、イエスを受け入れました。
その時、私は自分の家族がクリスチャンでしたから、
私もクリスチャンだとずっと思っていました。しか
し、その日の牧師先生のメッセージを聞いて、「一人
でイエス様の招きを受けなければいけない」という
ことがわかりました。帰ってから、母とベッドの隣
に座ってイエスの救いを受け入れました。その夜、
私がクリスチャンになったことは確かでした。
アメリカに帰国した時、丁度中学校2年生の時で
したが、もう日本に戻れないことについて本当に苦
しみました。それは、父が牧師になってアメリカに
残ることを決めたからでした。父からのプレッシャ
ーがあったのかもしれませんが、「聖霊を受けましょ
う」と言われて、私は本当にイエスのために一生仕
えるかどうか考えました。その時、アメリカの 8 年
生(日本の中学 2 年生)でしたが、本当にイエスの
ために生きようと決心しました。
それで私は、高校を卒業して、ウィートン・カレ
ッジという有名なクリスチャンの大学に入学しまし
た。ビリー・グラハム師が卒業した大学です。です
から人気のある大学で、授業料がとても高かったの
です。その当時、牧師の家庭でお金がないので、私
は軍隊に入隊するという条件で、米国陸軍からの奨
学金を申請して承認されました。
大学最後の4年生の時、陸軍人事担当の人が来て、
「あなたは米陸軍でどんな職種を希望するのか」と
問われ、私は「日本に行きたい」と言いました。陸
軍人事担当者は、「それは希望職種ではない」と言わ
れました。私は、卒業後陸軍に入隊する目的は、「日
本に戻るためです」と言いましたが、人事担当者は
「日本には米国陸軍が少ないので、その補職は非常
に難しい。しかし、君のために日本に行けるように
祈りましょう」と言いました。
次の日、私のところに来て祈った担当者は、「アイ
ディアがあります。あなたが日本語専門将校になれ
ば日本に戻れる可能性は高いです。しかし、日本語
専門将校になるために、まず先に普通の米軍将校と
して任官して普通の特技を取得した方が良い」と言
われ、さらに「あなたはミサイル部隊の将校になっ
た方が良いのではないかと思う」と言われたので、
再度聞いたら、「ナイキ・ホーク部隊の将校になれば
後2~3年でその部隊組織が終わるのでミサイル防空
将校は、比較的簡単に別の他職種に転換することが
でき、語学専門将校になれる」と教えてもらいまし
た。直ぐにミサイル専門将校になることを希望しま
した。しかし,米陸軍の中からに日本語専門将校に
なれるのは毎年 2 名のみです。今直ぐには決められ
ないのですが、私はその希望が叶うよう祈っていま
した。その後、ドイツでの防空ミサイルのナイキ・
ホーク専門将校として 4 年間の任務を終了し、やっ
と日本語専門将校に選ばれました。私は、その時“神
様の恵み”が、いつも私に与えられていることを感
じました。
3.ミサイル将校として軍に仕える「神の恵み」
そして日本で1年間、日本語の勉強(横浜の米軍
語学研修所)の機会も与えられ、さらにハワイ大学
大学院でも日本語学を学ぶことができました。1990
年に日本勤務となりました。
その後、在日米陸軍で日本語専門将校として働き
ました。通常は 2 年間日本で勤務したら本国に戻る
ことになっています。
しかし、1991 年当時、湾岸戦争が行われていたの
で、私は、ミサイル防空専門将校の経歴から、陸軍
司令部から中東湾岸のイラクの部隊に新たにパトリ
オット部隊を新編するので、パトリオット部隊司令
官として勤務するよう依頼を受けました。
私は、日本国を選び、日本語の勉強をさせて頂き
ましたので 日本を離れると語学特技が失われてし
まうので私は断りました。しかし、ほとんどの米軍
将校達は、「そのような断ることを言う者を聞いたこ
とがない。折角与えられる司令官職なのに」と言わ
れましたが、日本に残りたいと、私は祈りました、
これは“神の恵み”であると思いました。
そして1992年、一旦米陸軍を除隊し、直ぐに米陸
軍予備役将校として在日米軍司令部のある座間キャ
ンプの渉外部長になりました。そこから私が日本に
長く住むきっかけとなり、1990 年以来日本に住むこ
とになりました。これは、“神の恵み”と考えます。
このような私の軍歴は、米軍ではあり得ないのです。
ですから私が子供のころからの思いを神様がちゃ
んと聞いてくれて、今ここ日本に住ませて頂き、神
様に支えられていることに心から感謝しています。
横浜の米軍語学研修所で学んだ後、座間の在日米
陸軍司令部渉外部長の時に、長野県の野尻湖に別荘
を建てました。1997 年の夏休みにその別荘で火事が
ありました。その火事で最愛の娘のメイが亡くなり
ました。基地の従業員からは、「あなたは、なぜアメ
リカに戻らないのですか」と言われました。しかし、
私の子供が日本で亡くなったことは、“神の恵み”で
はないかと思い、アメリカには戻りませんでした。
それまで妻はあまり日本を好きではありませんで
したが、その事から妻も絶対日本から離れたくない
と感じて、それ以来私達家族は、みんな日本にずっ
と暮らすことを決めました。
メイが亡くなって、私たちの子供は ヘザーとジ
エシーの二人となり、その夏に野尻湖で聖霊を受け
て二人ともクリスチャンになり、今も我が子供達二
人は、この日本で宣教師として働いています。
ですから、私の家族の中でも“神の恵み”が見ら
れることは非常に印象的です。
火事があった当時は本当に大変でした。みんなは、
私の顔を見るだけで涙を流す人たちが多かったので
す。そしてその後、当時の補職(座間の在日米陸軍
司令部渉外部長)から、東京のハーディバラックス
(六本木)の連絡将校になり、日米関係の仕事を 4
年間続けました。その時に海兵隊の大佐が僕のとこ
ろに来て「ちょっと話したい」と言われ、この人が
立派なクリスチャンだったので 2 時間位話しをしま
した。彼は、自分が沖縄海兵隊基地司令部渉外部長
であると言いました。沖縄海兵隊には、日本語を話
すことができ、将校でクリスチャンという方がいま
せんでした。沖縄では当時、非常に大きな問題が発
生していました。彼から在沖米海兵隊司令部の外交
政策部長になるように説得され、私が沖縄に行くこ
とになりました。ここで、面白いのですが、中野久
永兄が同じ時期に私と一緒に沖縄にいました。本当
にいろいろな問題に直面しました。しかし、神様に
うまく仕えられたことを感謝しています。
その間、あの 2001 年9.11事件がありました。
そこで予備役達がみんな少しずつ軍に戻されました。
私も 3 年続けて何度も呼ばれましたが、海兵隊の力
で呼び戻されることはありませんでした。しかし、
最後に2004年にラムズフェル国防長官が皆に向かっ
て戻っていない陸軍予備役がいればクビになるとの
ことで、私は、ワシントン DC に呼び戻されました。
再び軍に戻り、軍服を身に着けました。
でも信じられないのは、1992 年に現役を退役した
時は、階級が大尉でしたが、予備役から戻ったとき
は大佐になっていました。私はワシントンDCに戻っ
て1年間勤務しようと思っていましたが、「あなたが
行くところは、イラクのアブグランというところで
仕事を担当して欲しい」と言われました。その時、
私はその場所がどういうところか聞いたこともあり
ませんでした。後でニュースなど聞いたのですが、
捕虜収容所で規律が大変乱れていた場所だという事
がわかりました。
そして司令官室で「なぜ私がそこに行くのですか」
と聞いてみたところ、「あなたが選ばれたのは新司令
官として現在の最悪状況を国連の規定に従うように、
きちんとしたやり方に戻す任務をして頂きたい」と
のことでした。つまり、「そこを片付けて元の捕虜収
容所のように良い場所に戻して頂きたい」と言われ
ました。私は全くそのような関係の仕事をしたこと
もなかったのでとても心配でした。けれども祈りま
した。家族にも祈ってもらい、皆でこのために祈り
はじめました。そこに行く 2 日前に司令官に呼ばれ
て、私が言われたのは、不思議なのですが、「あなた
は日本の東京にあるアメリカ大使館において駐在武
官になってもらいたいので、アブグラフトの任務か
ら東京に戻します。」と言われました。
“神の恵み”が私の上に見られました。私がアブ
クラフトという極悪状態の環境から大使館勤務にな
ったことは“神の恵み”以外に考えられません。本
当に神様が私を守ってくれて、そこで 2 年続けて予
備役として勤務しました。しかし、「米軍では、予備
役として駐在武官として勤務できることは 1 年間だ
けでも聞いたこともないんだ」と言われましたが、
さらにもう 1 年間、駐日米国大使の命令で2年間勤
務することになりました。その後、北朝鮮の問題が
出てきた時のことです。米国国防省副長官が日本に
来るとのことで私達は、成田空港に迎えに行き、一
緒に東京の米国大使館に戻りました。その間、長官
から困った事があり、それは青森にレーダー入れた
いのだが誰も日本語で交渉できるミサイル防空構想
について説明できる者がいないとの事でした。私が
その時に言ったのは、「担当として私が実施できま
す」と。そして、長官から「日本中のミサイル部隊
の統括担当者になってもらいたい」と言われました。
それは、2006 年の時で、ちょうど北朝鮮がミサイル
を日本の上空を通過し始めた時でした。最初は、1998
年でしたが、どんどんひどくなり、ちょうど2006年
のミサイル4基発射の3日前に青森県内の車力にレ
ーダーを設置することにより、任務を遂行すること
ができました。それで発射の航跡を常時監視できる
ようになり、みんな驚嘆しました。
このミサイル情報の流れをちゃんと市ヶ谷まで流
せられたことは、日本側にとっても米側にとっても
国益にかなうことができました。私はその時から 6
年間も勤務することができました。
さらにもう一度、“神の恵み”を見ることができま
した。私が大学生時代に将来何になるのか悩んでい
た当時、ミサイル関係の軍での仕事をするようにな
ることは、全く考えていませんでした。しかしあの
時、米軍教官大尉のアドバイスつまり、日本語専門
将校として日本に行くためには、ミサイル将校とし
て勤務をしてから、その後に、日本に行けるとの考
えは、まさに“神の恵み”で選ばれたと思います。
神様は私の祈りを覚えて下さり、25 年後に答えを
与えてくださいました。その“神の恵み”により、
パトリオットミサイルレーダーを日本の経ケ岬に入
れて、日米のミサイル防衛のために 6 年間勤務する
事ができたということです。米国大使館の武官勤務
の時に日本のミサイル構想のロードマップを作成す
ることができました。
本当にそれを見てもう一度、“神の恵み”が私をち
ゃんと助けてくれたという事です。神様は、日本の
ために私を用いてくださいました。
(次回に続く)

キリスト教と私との出会い
会員 渡辺忍(求道中)

現在、私は求道者としての立場であるので、コル
ネリオ会の皆様には大変失礼な発言などがあること
をお赦し願って, この記事を書かせていただきます。
私とキリスト教とは案外近いのかも知れないと思
っています。実は、私はサブカルチャーに興味があ
り、そこには必ず神父やキリスト教がありました。
平野耕太作「ヘルシング」にはアレクサンド・アン
デルセン神父が、正田崇作「Dies Irae」にはヴァレ
リア・トリファ神父が、「Fate Stay Night」の中に
も神父がいました。
そんな中、私が本格的にキリスト教を調べるきっ
かけとなった作品が、正田崇作「相州戦神館學園 八
命陣」でありました。登場人物に神野明影というキ
ャラクターがいます。彼はオラショを口ずさんでい
ました。俗に言う「隠れキリシタン」モチーフのキ
ャラクターであり、「さんたまりあーうらうらのーべ
す…」と歌っていました。カトリックであればピン
と来る方もいるでしょう。自分の探求癖もあり元ネ
タを探していくと、自然とたどり着くロレトの連禱
の一節でした。「 Sancta Maria Ora pro nobis…」ま
さしくその一節です。そうして、元ネタを探る中で
キリシタン音楽と出会い、その元ネタであるグレゴ
リオ聖歌に出会い、その聖歌は祈りの一節であるこ
とが多く、その祈りの言葉に自分は魅せられ、キリ
ストの十字架に祈ることが増えていきました。
プロテスタントの教会が自分のいる町にあること
は知っていましたが,自分は喫煙をしていましたの
で、喫煙の可能なキリスト教を探していました。そ
うしたら、必然とカトリックにまで来ていました。
カトリック教会があることまで調べがつけば、一刻
も早く救いを求めなければと、自然とカトリック教
会へ足が向いていました。その時点で私は神に導か
れていたのだろうと自分は思っています。神の思し
召しと思います。祈祷書による日々の祈り、ロザリ
オの祈り、そして外出のできる日は、ミサへとキリ
ストの教えを学ぶ今現在求道中の身であります。
神父様と学びを通す中で神父様に言われたことで、
印象に残ったことがありました。それは、「日本カト
リック教会においては、憲法九条は改正すべきでは
ないというのが方針です。自衛官である渡辺さんに
は気になる点もあるとは思いますが、ご理解をお願
いします」と。
「自衛官は政治的活動に関与せず」が主体であり、
宣誓もしています。今さら憲法などどうでもいいと
は思いながらも、その中で自衛官や軍人がどのよう
に祈り、どのように信仰を守り続けてきたかが気に
なり「戦場の宗教, 軍人の信仰」に辿り着き、数日
で読破しました。その中で自衛隊にもキリスト者の
会があることを知り、このコルネリオ会と出会いコ
ンタクトを取り、入会する算段となり、本日(2020
年9月12日)Zoomで初めてコルネリオ会の例会に参
加させていただきました。皆さんに出会えて大変嬉
しく思い、励まされました。
最後に、現在求道者のゆえ、また若さゆえ、時折
無礼な言葉を発する時もあるかも知れませんが、ど
うぞお赦しいただければ幸いです。父と子と聖霊の
み名によって、アーメン。

熊本バンドについて
会員 圓林栄喜

1 はじめに
日本プロテスタントの三大源流の一つに「熊本バ
ンド」があります。「札幌バンド」は内村鑑三、新渡
戸稲造等に感化を与えたクラーク博士が有名ですが、
「熊本バンド」は海老名弾正、徳富蘇峰等に感化を
与えたジェーンズという米陸軍退役大尉の影響が大
きかったことを熊本での生活で知ることができまし
た。すでにご存じの方々も多いとは思いますが、概
要と思うところについて短くまとめてみました。
2 熊本洋学校の設立とJanesの来日
明治維新の当時、日本は西洋列国に追いつくため
様々な形で文化を取り入れようとします。
熊本においても、熊本洋学校を設立し、西洋の先
進的な学問を進取する動きが明治2~3年に始まり、
明治4年にはフルベッキ博士の取り計らいで、Leroy
Lansing Janesが洋学校教師として熊本に来ることに
なりました。
ジェーンズの父親は陸軍大佐、群保安官、長老教
会の長老を勤め、母エリザベスも敬虔なクリスチャ
ンでした。ジェーンズも、ウエストポイント陸軍士
官学校を卒業し、南北戦争に北軍将校として従軍し
た後、ウエストポイント教官、大尉に昇任、オレゴ
ン州スティーブンズ要塞中隊長を勤め退役した陸軍
軍人でした。その後、農業に従事していた矢先、熊
本洋学校教師として赴任することを決意したようで
す。当時34歳の若さであり、家族を連れての来日で
した。
3 教育スタイル
教育はすべて通訳なしで実施したようです。アル
ファベット、発音、スペリングとすすめ、2年目か
らはすべての教科(英語、算数、代数幾何、測量、
物理、化学、天文、地質学、生理学、地理、万国史)
が英語で実施されました。また、人前で自分の考え
を述べることを重視し、英米の有名人の演説を英語
で丸暗記させ人前で話させました。さらに、自学自
習を訓練させ、上級生を助手として下級生の指導を
させるとともに、女子も一部授業を聴講させる等の
革新的な教育を実施しています。卒業生は第1回46
人中11人(1875年、明治8年)、第2回72人中11
人(1876年、明治9年)でした。
4 聖書研究会
Janes は、「バイブルはあらゆる点において研究す
る必要があるから、もし希望者があったら私の家で
研究会を開くから出席しなさい。」と生徒を土曜の放
課後や夜に聖書研究会に招待しました。
生徒らは英語熟達のため、儒教と比較するため、
キリスト教攻撃の資料探索のため、閉会後のコーヒ
ー、クッキー目当てのためと様々な動機で40人以上
の生徒が出席し、ジェーンズは輪読後に熱い祈りを
奉げました。最初は好奇心で参加していた生徒も、
ジェーンズの真摯な祈りと態度に感化され、参加者
の中からキリスト教を理解し、熱心な信者となる者
も出始めます。そして、1876年(明治9年)1月30
日には花岡山に 35 人の有志が集まり、「キリスト教
を日本に広めて素晴らしい国をつくろう」という誓
いを立てました。現在、花岡山には「奉教之碑」が
残っています。(写真参照)
5 迫害と閉校
ところが、多くの生徒が信仰をもったことが家族
や親戚に知れ渡り、彼らは様々な迫害を受けること
となりました。幽閉や勘当等の厳しい弾圧があり、
35 名のうち、14名が盟約を破棄する状況でした。中
には、親が急病で帰れと生徒に告げさせそれが、虚
報であることを知りつつ決別のあいさつに来た生徒
に対し、ジェーンズは「お前の生命と、キリストの
生命とはどちらがとられるか。行け!殺されて来
い。」と目頭に涙をたたえて励ましたそうです。ジェ
ーンズはその収拾に奔走し、同志社英学校に受難中
の生徒21名を預け、その年、1876年(明治9年)熊
本洋学校は廃校となりました。ジェーンズはその後、
大阪英学校で教員となった後、41 歳で帰米、さらに
57 歳で再び日本で英語教師として赴任し、62歳で帰
米、72歳で亡くなりました。
6 おわりに(信仰雑感)
(1)何事にも真摯に取り組む
ジェーンズは初めて訪問する「日本」という国に
単なる教育だけでなく、救われる魂を見出すために
来日したことは疑いないと思います。
クリスチャンの信仰姿勢はまさしく何事にも真摯
に取り組む姿に表れており、当時のウエストポイン
トでの教育も同様に行われていたのでしょう。
特に聖書研究会でのジェーンの祈りと態度はクリ
スチャンならでは姿であると思います。真摯に取り
組む姿こそ、周囲に感化を与え、それが生徒にも影
響を与えていると考えれば、我々も日々の働きの中
で何事にも真摯に取り組み、置かれたところでよき
キリストの香りを放つ者でありたいと思います。
(2)キリストの憐れみと恵み
熊本は、江戸時代、天草島原の乱をはじめ多く
のクリスチャンが弾圧され、殉教者を出しました。
その後、明治の初めまで潜伏クリスチャンが
脈々とキリスト教の信仰を受け継いできたところ
でもあります。
また、クリスチャンとして非業の死を遂げた、細川
ガラシャの夫細川忠興も丹後、小倉と藩を変え、最後
は熊本に移り住みました。熊本は比較的ミッション系
の学校や教会が多いのですが、昔から主の憐れみと恵
みが注がれているからではないかと思います。
(3)神の導きに従う
6 年の教育で多くの生徒がイエスキリストを信じ、
真剣な決断をしたことは喜ばしいものであったはず
ですが、想像以上のクリスチャンに対する迫害にはジ
ェーン自身戸惑いもあったと思います。「行け、殺さ
れて来い」の発言は、彼がクリスチャンであるととも
に軍人であったことを思わせるエピソードです。いつ
死んでも我々は天国に入る約束が与えられている。と
の確信こそ我々も意識すべき大切なことであると思
います。
一方で、1876年(明治9年)10月17日にジェーン
ズは熊本洋学校での任期を終了し大阪へと向かいま
す。この年、明治政府は外国文化を取り入れていく方
針を打ち出して断髪令や廃刀令等を出しました。これ
に起因して熊本の武士ら約170人が10月24日に熊本
県知事や熊本鎮台を襲撃し、知事を殺害するという神
風連の乱を起こします。
その後も武士らの反乱が相次ぎ、福岡秋月の乱、
山口萩の乱、そして翌年の西南戦争へとつながっ
ていきます。
熊本が神風連の乱や西南戦争の嵐に巻き込まれ
る直前に、ジェーン一家は大阪へ、洋学校の卒業
生らも京都の同志社英学校に移り無事でした。
熊本洋学校のクリスチャンたちが殉教すること
なくその後の日本の近代化に関与できたことは神
様の導きであったと思います。まさしく、イエス
キリストとヨセフ、マリアがヘロデ王の兵士たち
から逃れエジプトへ向かうシーンを彷彿とさせる
出来事です。このエピソードを通して、我々が主
の導きに従うとき、主が最善をなしてくださるこ
とを覚えました。
神 その道は完全。主のことばは純粋。主は すべて
主に身を避ける者の盾。
詩篇18篇30節
〔参考文献〕
潮谷総一郎、『熊本洋学校とジェーンズ 熊本バン
ドの人びと』、熊本年鑑社、1991年
熊本県立大学編著、『ジェーンズが遺したもの』、
熊日新書、2012年
『百万人の福音No.827 熊本キリスト教の旅』、い
のちのことば社、2019年5月号
(おわり)

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